私たちはアメリカ人にならなくて良い。
何となく思っていたことだけど、先日尊敬している友達とこの一文について共感し合えたので、他にも仲間を見つけられたらと思い、記事にします!
目次
和製バイリンガルについて
日本で生まれ育ち、英語を勉強し、バイリンガルとして日本語と英語を使えるようになる人は、多くはありませんが日本に一定数います。自分も含めてそんな人たちを私は勝手に和製バイリンガルと呼んじゃっています!国産バイリンガルって言う人もいるみたいですね!
和製バイリンガルになるために、そして、和製バイリンガルとして生きる上で、英語の文化的背景を理解するのはとても大事です!その言語の理解も深まるし、英語を使ってコミュニケーションを取る相手の意図を理解することにもつながるからです。
言葉が考え方をひっぱりあげるとき
英語は英語ネイティブの考え方が反映されたコミュニケーションツールです。ですから、英語を使っていると日本人である私たちの考え方も英語的考え方に影響を受けます。
普段日本語を使っていても、言葉を口に出すと本当のことのように思えてくることってありませんか?
落ち込んだ時に「大丈夫、大丈夫」ってつぶやくことや
大事な本番の前に「できる、できる」と自分に言い聞かせて落ち着こうとすること
そして気合いを入れたいときに「よし!」とか「おす!」って言ったりすることも。
頭や心が半信半疑の時でも、そう思いたい言葉を声に出していうことで、その言葉を心から信じられるようになったりするものです。
考えや気持ちが使う言葉にひっぱられることはたくさんあるし、私たちはそれを無意識にやっているようなんですよね。
となると、やっぱり英語を話していると英語的考え方になっていきます。
和製バイリンガルの中身はどっち?
それでは和製バイリンガルは英語を使っている時は英語ネイティブのような考え方を持ち、性格まで変わってしまっているのでしょうか?これは、私も何年も考えてきた内容です。
数年前にバイリンガルの頭の中はどうなっているのか?という記事を書きました。日本語を話しているときと英語を話している時で性格が違ってくるというような話にも触れています。
英語を使いこなせるようになればなるほど、英語的な性格に変わっていく自分に気づき、複雑な気持ちを抱いていたので和製バイリンガルについて色々と考えていた時期だなと思います。特に、英語を流暢に使えるようになるには、性格を変えることも本当に必要なのだろうか…と。
ところが、その後、英語を使って必死にコミュニケーションを取らないといけない数年間が続いたことで、その考えにも変化が生まれてきたのです。
それはもう、持てる英語力を可能な限り使って必死に伝えたいことを英語にして絞り出す毎日でした。なんで伝わらないんだろうと悩み、何度言い方を変えても上手くいかなかったり、逆にたったの一単語加えることで、急に相手がまるっと理解してくれたりと、驚きと苦悩と達成感が次々に訪れる、感情のジェットコースターのような日々で。笑
そんな毎日を経て、言語の知識という意味での英語力もきっと上がったのでしょうけど、なによりも日本人として考えながらもツールとしての英語を瞬時に使いこなす能力が上がったような気がしています。
そのうち、今まで葛藤だったことが気づいたら解消されていて、自信を持って生徒さんや他の英語を頑張っているひとたちにあることが言えるようになったのです。
和製バイリンガルが必死に英語を使って悟ったこと
日本語でも大変な内容を、英語と言うツールに変換して、必死に毎日働いていた結果、和製バイリンガルとしての自分のあり方について、私の考えが変わっていることに気づきました。
それが、
私たちはアメリカ人にならなくていい。
ということです。
インパクトを持たせるためにアメリカ人と言ってしまいました(笑)
厳密には英語ネイティブの人たち、という意味です。言語レベルは彼らが持つものを目指したいですが、考え方やニュアンスの表現、細かい言葉選びまで彼らのまねをする必要はないと思うようになりました。
英語という言語の仕組みがある程度わかって使えるようになったら、あとは自分で好きに組み立てたり組み合わせたりすればいいのです。自分で新しい文や言葉の組み合わせを作ったって全く問題なく、自分のフィーリングで英語を使って良いということになります。
それに気づいてから、私は英語ネイティブの人たちに対する変な劣等感や引け目みたいなものを感じなくなった気がします。
そうすると、無意識のうちに、以前よりも自信を持って英語を話せるようになり、結果として相手に伝わりやすくなるという好循環が生まれました。
日本人が日本語で伝えたいと思う内容を、英語でも伝えられるようになる。
これが私が今、追求していきたい和製バイリンガルとしての姿です。
日本人の心を英語で表現する限界
やっぱり、日本で生まれ育って感じること、思うこと、それが英語という言語を習得するためだけに、だんだん薄れて失われていくのはとっても寂しいしもったいないと思うんです。(もったいない、と思うのもとても日本人的ですね。)
そして、寂しい、という感情にも日本語にはより何層もある気がしています。
「寂しい」のいろいろ
寂しいは英語には二種類ある、という記事をかつて書きました。
誰かを具体的に恋しいと思っている miss
ひとりぼっちで孤独を感じている lonely
さっき私が上で使った「日本人らしい感じ方が失われるのは寂しい」というニュアンスはそのどちらにもあてはまりません。
英語で言うとしたらsadで表現することになりますが、真にしっくりくる言葉ではありません。同じ感情はそもそも存在しないのではないかなと思います。
「嬉し恥ずかし」の場合
ポジティブな表現でも同じような現象が起きます。例えば褒められて恥ずかし嬉しいとき。
「嬉し恥ずかし」という表現があります。
くすぐったい気持ちという表現が使われたりもしますよね。
身体的にはくすぐったくなくても、ちょっとフワッと、サワサワっと、っと温かい感覚が全身に巡るような感じでしょうか。
本来であれば褒められているのだから恥ずかしがる必要はない!と英語ネイティブの声が聞こえてきそうですが(笑)。
それでも日本人として謙遜とか遠慮といった考え方からくる、注目されたことに恥じらいを感じ、ちょっと一歩下がって控えめに喜ぶ、そんな感覚、英語では表しようがありません。
英語でその控えめな雰囲気に近づけようとするなら、恐らく、”awwe, I’m flattered. I’m blushing.” (そんなー、光栄です。ほっぺが赤くなってきました。)とわたしなら言うのかなーと思います。
でも英語ネイティブが褒められて嬉しい時は、大抵の人が堂々としています。あるいは恥ずかしがり屋の人はツンデレだったりします。”nah it’s nothing.” とか “Stop it.”とか。笑
私にとって、こちらの表現は不自然に感じてしまうので、同じ英語でも使いにくいです。やっぱり照れるので、上のような控えめな反応を英語に変換する方法を模索すると思います。
究極のバイリンガルになるには
個人それぞれが、生まれ持った性格から自然に感じる反応を示せる言葉を選べることが一番だと思います。
それが究極のバイリンガル、トリリンガル、クワトロリンガル….マルチリンガルと言えるのではないでしょうか。
アメリカ人 ≒ 英語ネイティブ (イギリス、オーストラリア、カナダ、などなど)
になろうとするのではなく、
あくまで日本人としての心を持って、それをなるべく正確に英語で話せたらとても上級で上質な言語力があるということになると思います!
私と一緒にそのレベルを目指してくれる仲間がこれからもっともっと増えていったらいいなー!
そんなバイリンガル持論でした。笑 最後まで読んでくださったみなさま、ありがとー!!!
それではまた次回!